山口県おでかけ情報 山口県萩市見島
山口県萩市の北西約44kmの日本海海上にある島『見島』

平成19年9月3日(月)
山口県萩市の北西約44kmの日本海海上にある、面積:7.73平方キロメートル/人口:1,078人(H19.3.30)の山口県の最北端の島『見島』へ出かけた。高速船「おにようず」に乗ると70分で行ける。
駐車場に車を置き、今回は、自転車を持ち込むため、荷物預かり所で自転車を預ける。
乗船料金は、1890円自転車持ち込み料は、320円。

船室内

船底には、床がしいてあり、眠ることもできる

脱出経路をチェックして

船内には、テレビもあり退屈しない


指月山に別れを告げ

もちろん愛車エルちゃんにも

夕べの雷雨が残っているのか雲行きが怪しい


前方に見島が見えてきた



見島に到着!!お天気も良好

おにようずの看板の前で陽気な藤井君


最初のお出迎えが見島牛の銅像
☆ ☆ ☆ ☆ 見島牛って知ってますか? ☆ ☆ ☆ ☆ 放牧されている見島牛
見島ウシ産地
国指定天然記念物(昭和3年9月20日指定)
見島ウシは、室町時代頃に朝鮮半島から渡米し、現代まで混血することなく飼育されてきたため、日本で最も
戦前は400~500頭が飼育され毎年約200頭が移出されていましたが、昭和30年頃より農業の機械化が始まり減少の一途をたどりました。このため昭和34年に保護増殖事業が始まり、昭和42年に見島牛保存会が発足しました。現在では約100頭まで増加していますが、まだまだ私のお口には入りません。
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見島本村唯一(多分?)のお土産やさん「ショップみしま」 お店の中には「おにようず」が
☆ ☆ ☆ ☆ おにようずって知ってますか? ☆ ☆ ☆ ☆
「ヨーズは凧のこと。揚子と書く。大陸から伝わったと言われる。顔が面妖やで妖図という説もある」
見島から朝鮮半島までは約180キロと近い。大陸との交流が古く、ヨーズも、貿易が盛んだった8世紀ごろに入ってきたらしい。
島では、初めての男児が生まれた年に、家族や親類一同で鬼ヨーズを作る。大きさ、出来栄えを競い、20畳ほどの大型凧もある。傘紙を何枚も張り合わせ、墨で下絵を描き、原色の赤や青を塗る。赤いピラピラの耳をつけ、目に房状の涙をつける。
出来上がったヨーズは正月に揚げて祝う。空高く揚がるほど縁起がよく、男の子が元気に育つ、と信じられている。揚げるのは一度だけ。その後は、部屋の天井から下げ、その真下に赤子を寝かせる。
「鬼をも恐れない強い子になってほしい。涙は『鬼の目に涙』で、情けを知る男になれという願い」今では、鬼揚子は島内のイベントなどの際にも、揚げられています。
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国指定史跡「見島ジーコンボ古墳群」
見島南東部海岸一帯の東西300m、南北50~100mにわたる地域に分布する密集古墳群です。墳墓の形式は、土を使わずに海浜にある玄武岩の石だけで築いた積石塚と呼ばれるもので、総数は約200基です。そのうち、現在石室を残しているものが約160基あり、未発掘のものや長い年月の間に破壊されたものも少なくないと思われます。
ジーコンボ古墳群は、7世紀後半から10世紀後半(奈良~平安時代)にかけて造営されたものですが、葬られた人々の実態ははっきり解明されていません。
朝鮮半島・大陸への玄関口となる見島の位置、本土から持ち込まれたと思われる武器の大量出土から、見島が対外的な前線基地であった可能性もあり、当時わが国と緊張関係にあった中国(唐)・朝鮮(新羅)に対する国家防衛のため、西日本各地に派遣され駐留していた防人のはかではないかとの説もあります。
副葬品として、和同開珎・貞観永宝のような奈良・平安時代に鋳造された皇朝銭、勾玉・銅製帯金のような装身具、青銅製のサジ・片口付銅製のシャクのような生活用具、刀や弓のような武器が出土しています。これらは、当時の都(奈良・京都)周辺から持ち込まれたものと思われ、工芸的にも極めて優れ、「見島ジーコンボ古墳群出土品」として山口県有形文化財の指定を受けています。
見島ジーコンボ古墳群は全国的にも珍しい積石塚・密集墳墓群という形態、特色ある副葬品(特に銅製帯金具は全国でも貴重な出土品です)見島という離島上に位置する天から、非常に希少価値の高い史跡と言えます。

こっちは今のお墓


笠石(かさいし) きのこの形をした石で、ナバ石とも呼ばれ、原始宗教の遺物ではないかといわれています。笠の上に小石を上げると子宝に恵まれるという言い伝えがあります。
見島ダム・見島ゆりや湖
約1,300人の人が生活しており、主な産業は農業と漁業です。
大谷川は、見島唯一の2級河川であり、その沿川には八町八反と呼ばれる広大な農地が広がっています。大谷川は灌漑用水等に広く利用されていますが、小河川のため、洪水の度家屋の浸水、農地の冠水等の被害を生じています。
また、見島では水道用水の水源として深井戸の湧水を利用していますが、水量が不安定で供給量が多くなると塩分濃度が高くなります。
平成6年の大渇水の時には、水道の塩害が著しく、給水制限が行われました。また、農業用のため池は枯渇し、稲作にも大きな影響がでました。
このため、見島ダムでは、大谷川沿川の洪水対策と島内へ水道用水を安定供給します。



見島ダムから見える本村(ほんむら)


自転車を走らせると、宇津港が見えた
宇津港を右に見て、左へ曲がり、どんどんどんどん丘を越えると、長尾の鼻(見島北灯台)にようやく到着

☆ ☆ ☆ ☆ 長尾の鼻(見島北灯台) ☆ ☆ ☆ ☆
<北緯34度47分40秒 東経131度08分01秒>
ここは見島の最北端であり、山口県の最北端でもあります。
太陽が水平線から昇り、水平線に沈むのを一ヶ所で見ることのできる
全国でも数少ない場所のひとつです。
この灯台は1963年1月から日本海を照らし続けている
(光度80万カンデラ、光達距離40マイル)
第7管区海上保安本部管内の灯台で北端の灯台です。
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見島北灯台で休憩を済ましたら、宇津山観音寺へ向かう。




さっき登った道をどんどん下る

宇津港を通り過ぎ、丘をあがると、無数の鳥居が

断崖絶壁の真下に宇津山観音寺がある

宇津山観音寺横の火山噴火後の洞穴の前で


☆ ☆ ☆ 露兵漂着地の碑 ☆ ☆ ☆
日露戦争中、日本海海戦で撃沈された特務艦カムチャッカの乗組員が海岸へボートにて上陸。当時の役場(役場は本村にあり電話も無く宇津から本村までの連絡は人に頼っていた)へ入った第一報は『旦様タータ大変でござりますロシアの海軍兵が来ました。詳しいことは知りませんが、一時も早うお知らせしたいから参りました』次の報せは「ロシアが来ました、ボート1艘に五六十人乗って沙弥田へ上がりました」医師二名、助手一名(当時の島医師全員)を派遣し救護にあたり「時に現場は見物人の黒山を築き、二千有余人の勢揃へとも評すべし」村助役などが「ミルク、ミルク」と重湯をすすめたり、沢庵を「ニッポンバター」と配ったりして、村を挙げて救護したようです。
此の碑の表には、「露兵漂着地」裏に、「明治三十八年五月二十八日」と刻まれています
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見島滞在時間はわずか4時間でしたが、島の人たちもとても優しく迎えてくれて、充実した楽しい 1日を過ごしました。
2007年09月04日
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